空手は沖縄が発祥地であり、大きく分けて那覇手と首里手と泊手の3つの大きな流れがあります
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東恩流開祖・許田重発先生について

 この許田重発先生の思い出を書くに当たっては、
決して現存する開手型の解説や説明をすることを目的としているのではありません。
型の技法の解釈や、それぞれが永年の習練によって自然と本能的なものとして身につき、修得するものだからです。
ですから、決して、この寄稿の意味を誤解することのないよう、特にお願いします。
なお、型の名称については紛らわしいので、すべてカタカナで表示することにしましたのでご理解ください。

 1.出会い
戦後五年も経つと、ようやく世の中も落ち着いてきました。しかし、多くの人々の生活は混乱と食糧難の時代が続きました。敗戦の代償として、やっと手に入れた平和な時代になっても、人々はその日の暮らしにも困るようなせいかつをしていたのです。
当時、私はアメリカ駐留軍のキャンプ・チカマウガ(別府)に勤務していましたので、比較的のんびりとした青春を過ごしていましたのが、このやっと平和になった日本にとっても重大事件が突発したのです。それは昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争です。
これを契機に、日本は、この朝鮮戦争による特需景気で復興に大きく踏み出したわけですが、当事国でない私たちは、あいかわらず平和な青春を楽しんでいました。朝鮮戦争の拡大とともに、戦争による米軍の戦死者も多く出ました。それでも戦争中でありながら、彼らは休暇をとって一時別府に帰ってくる米兵もありました。彼らは戦争のせいで非常に気が荒くなっていて、トルブルはしょっちゅう発生していました。ある夜、私は友人とあるバーで米兵数名の喧嘩に巻き込まれたのです。さんざん叩きのめされました。
強くならなければいけない。馬鹿にされてはいけない。真剣に考えました。なんとか彼らと対等に闘えるにはどうしたらいいのか。いま、振り返ってみると馬鹿のような話ですが、当時は真剣に考えたものです。
まだ、予科練くずれだの、愚連隊がのさばっていた時代です。いまの人はお分かりにならないだろうと思いますが、戦後に生きることの目標を失った若い連中の愚劣な集まりでした。戦時中は予科練にいた私も予科練くずれの一人として駐留軍に働きながら、目標のないどうでもいいような暮らしをしていました。ですから、この時に許田先生との出会いがなかったらと思うと、今更ながら身のすくむ思いがします。
さて、その頃、友人がどこからか聞き込んできたのがこの空手の話です。大分駅で数人のやくざを相手にやっつけていたというのです。その人を探し回りました。何とか弟子にしてもらおうと思って・・・・。やっと手掛かりをつかんで訪ねたのが照屋林廣という人です。当時、別府のみすぼらしい市場の中の一軒の二階にその人は住んでいました。照屋という名前からお分かりのように沖縄出身で、しかも許田先生の教え子でした。何をしていた人だったのかは今ではもう分かりませんが、とにかく、いろいろな経緯はありましたが、「それでは、私が教えるよりも、別府に有名な先生がおられるのでその方を紹介しよう」ということになり、許田先生のお宅に連れて行かれました。
お会いした許田先生は、痩せた小柄な老人でした。この人が?と私は戸惑いました。空手については全くの無知であった私は、この老人がそれほど高名な空手の達人であろうとは思いもしませんでした。
私の入門のお願いに対して先生はなかなか許可を出されませんでした。先生がやっと入門の許可を出されたのは、私が毎日のようにお願いに通って、約一ヵ月後のことです。
「それでは、明日から始めようか。稽古は決して楽ではないよ」と・・・
言い忘れましたが、先生は決して教えるということをおっしゃいませんでした。入門の許可というより、「それでは一緒に研究しようか」というような謙虚な方だったのです。これは後ほど知ったことですが、私たちが空手を習いたいという動機が気に入らなかったということです。空手は喧嘩の道具ではない。人を傷つけるためのものではないと、こんこんと諭されました。

 2.サンチン
やっとお許しが出て始めた稽古は、全く理解出来ませんでした。ただ歩くだけの練習です。サンチンという型の歩行の仕方です。
歩の運び、歩幅、姿勢、力の入れ具合、来る日も来る日も、毎日毎日この練習ばかりでした。
「空手はサンチンに始まりサンチンに終わる。サンチンを見ればどの程度の習練をしたのかすぐに分かるんだ」と言われて、来る日も来る日もサンチン、サンチンでした。
これは私たちが段々上達して、高度な開手型に入ってからも、必ず最初にサンチンをやり、最後にまたサンチンで締めくくるということを続けております。
当時は、畳敷きの部屋の中での練習です。先生は三男の重光先生(後述)の就職先である電信電話公社の社宅に同居されていて、しかも、二階住まいでした。二階ですから階下に響かないようにしなくていけません。音をたて階下の住人に迷惑をかけるわけにはいかないのです。
こうして畳敷きの部屋はサンチンで締め上げられるのですからたまったものではありません。すぐにぼろぼろになってしまいます。何回かこの畳を替えたことでしょう。しかし、この音をたてないための練習が後になって、いかに大事に身に付いたかを知ることになりました。猫のように柔らかく虎のように力強く素早く動くことが自然と身に付いたのです。もちろん、これだけの練習ではありません。サンチンの練習と並行して、突き、蹴り、受け身等、基本的な動きの練習はすべてこの二階の部屋で行われました。前屈による突き蹴り。あるいは後屈による突き蹴り、また猫足による移動等、すべてこの部屋で行われたのです。
しかも、音をたてないようにして・・・
サンチンの歩き方が出来るようになるのに三ヵ月程かかりました。見た目には簡単に出来そうですが、しかし、目を閉じて真っ直ぐに歩いて、また元の位置まで戻るということは至難の業でした。しかし、一定の歩幅が身に付いてしまうと、それが可能になるのです。地面の上でやると綺麗に三つの足跡がずっと歩行した距離だけ残るのです。それも足の左親指で押さえた足跡は、戻るときには必ず元のその足跡の位置を通るのですから、ちょうどサイコロの目の五つを思い出してください。五ということは対向する点が必ず向き合っています。そして真ん中に一点ありますね。左の足親指の位置は変わりませんから。戻ってくる場合には右足とは対象でないといけないのです。移動によってこの五の目はいくらでも続いて行くわけです。
サンチンはいわゆる基本型といって、那覇手の鍛錬型であるとことはご承知の通りです。面白味のない単純な技の中に多くの意味を含んでいるということは熟練するほどに、だんだんと悟って来るようになりました。
ですから、先生は空手はサンチンに始まりサンチンに終わるということをおっしゃっておられたのです。
ここでサンチンの講義、解説をしようとするのではありませんからこれくらいにしますが、私たちが初めてこの歩き方に、サンチンに手を加えての練習は約三ヶ月を経ったころからでした。そして呼吸の仕方、体の締め具合、背筋を真っ直ぐに伸ばして腰を落とし、力を両足に入れて内腿を締める。肛門を締める。足は大地をしっかりと掴んで、この大地の気を吸い上げるような気持ちで、睾丸を腹腔に引き入れるように心掛けるというようなことです。
前進して反転するところがあります。このとき、先生は左肩に左手を置きます。回転と同時にその手は掛け手となって、私の手を掛けて引くのですが、これで身体が動いてはいけないのです。
また、締めるいう方法では肩を打ちます。ちょっとでも気を抜くと、膝ががくっとします。前日の不摂生がたたって力が入らないと、先生は「何だ。どうした。昨夜は飲んだな」と分かってしまいます。この締めには相当に辛い思いをしました。両肩は下げても肩の肉は盛り上がっていますから、痛さはたいしたことはないのですが、肩には打たれた指の痕がつくのです。先生の鍛錬の仕方はこういう方法でした。
参考までですが、中国ではサンチンは開手で、突きは抜き手で行っていたようです。これを東恩納先生がいまのように拳に変えられたのだとおっしゃっていました。
このようにして、この二階の部屋での練習は、開手型のセイサンに至るまで続きました。こうして、開手型の練習に入っていったのです。
最初に申しておきますが、一つの型を習得するのに約三ヵ年かかります。最初の一年は型の動きを覚えることですから、そう難しいものではありません。二年目は覚えた型の自己研修です。研究です。この技は、どういう技である。この型の持つ意味はこういうことだと自分で研究するのです。自分で悟った技が先生の教える意味と合致したときには大変な喜びでした。三年目は、その覚えた技の実技です。これは重光先生と一緒に稽古をしました。
現在のように、全てを解説して指導する方法がいいのか、自分で悟らせるほうがいいのかは私には分かりませんが、少なくとも自分で悟った技というのは、本能的なものとなるようです。

 3.セイサン セーサン
重発先生は東恩納寛量先生のセイサンも習得されましたが、別に東恩納寛裕先生のセイサンの型も習得されていました。これを習うにあたって寛裕先生は「重発には私のセイサンを教えよう」と東恩納寛量先生の許可を得て指導されたということです。寛裕先生は寛量先生の親戚にあたる方だそうですが、那覇の東の方に住んで居られたので東の東恩納、寛量先生は西の東恩納と呼ばれていたそうです。この先生については、詳らかではなく、文学者で武士であったということしか分かっていませんが、中国でサンチンとセイサンを習得して来たということをお聞きしています。
重発先生は常々、セイサンという型は寛量先生のセイサン、寛裕先生のセイサン、その他いろいろなセイサンがある。したがって。どの型が正しい型、どの型が違っているとは言えないのだよ。それよりも自分の体に合ったセイサンをしっかり練習しなさいと言っておられました。この寛量のセイサンと寛裕のセイサンを一緒にしてセイサン一、セイサン二というようにしようか、それとも一つの型として、それぞれの特徴を活かしてセイサンにするか、と一時考えておられたようでしたが、とうとう実現しないままでした。
このころから、私たちの練習は畳の部屋ではなく地面に降りての練習に入りました。官舎の狭い庭での練習です。ほんの一坪半ほどの空き地での練習でしたが、門下生は私たち二人でしたから、狭いなりにも土の上での練習は大変嬉しかったことを思い出します。
厳寒の候でした。裸足で土の上での練習です。雪の降り積もった中での練習です。足は凍ってしびれのため感覚がなくなります。雪解け水がそばにありました。私たちは、こぞってその水に足をつけたものでした。水は雪よりも温かだということを身をもって実感しました。
なによりも練習する場所にこと欠きました。当時、入門した弟子に亀川という町に住んでいるものがいましたので遠く亀川まで行きました。彼の家の庭は広くて練習するには十分な広さでした。当時、別府には市街電車が走っていましたので、それに乗ってわざわざ先生もご一緒してくださったのです。
この電車の中でのことです。ただぼんやりと外を眺めていた私に「神崎君、いま何が通ったか。今の花の色は何だったか」と聞かれたのです。当然、私は「分かりません」と答えました。先生は「ただ、漫然と通り過ぎるものを見るだけではいけない。いま目の前を横切っていくものが何であるか。ただし、それを目で追ってはいけない。直感的に感じ取るように心掛けなさい」という教訓をいただいた覚えがあります。
雨のため外で練習が出来ないような日には空手についての歴史、いわゆる精神訓話の日です。このころ東恩納寛量先生の師がルールーという中国人であることを知りました。随分昔の話になりますので、うろ覚えですが、東恩納先生が商用で中国に渡ったときに、川の氾濫に出会って、そのとき助けた子どもがルールーという人の孫?子供?とかということでした。そのルールーという人は中国拳法の有名な指導者でしたので、その内弟子として十一年間住み込んで中国拳法を習得したということです。私は、このように言い伝えとして、先生からお聞きしていました。
許田先生の思い出となりますと、いろいろなことがありますので、話が前後になりますが思い出すたびに話を進めたいと思います。

 4.サンセールー
サンセールーの型は東恩流独特のものです。当時、東恩納先生のところに通っていたのは同門に剛柔流開祖の宮城長順先生がおられました。この先生が兵役で軍隊に入っているころ、許田先生は、このサンセールーの指導を受けておられます。
たまたま、先生は小柄で軍隊の身体検査は不合格でした。身長が足りなかったのですが、そのかわり若いころのお写真を拝見すると実に見事な肉体をしていました。首がないと言えば変に聞こえますが、首が肩の筋肉で盛り上がっているという感じです。何しろ片手で鉄棒の大車輪や屈伸運動を数回繰り返したというほどですから、いかに凄い筋肉の持ち主であったかということは分かると思います。私も、当時としては身長は低くても人に見劣りするような肉体ではなく、逆三角形の素晴らしい肉体だったと自負していましたが、これだけはどうしても出来ませんでした。腕を曲げてそのまま止めておくことは出来ます。しかし、屈伸運動数回となるととても不可能でした。
また、器械体操は大車輪なども平気でこなしていたというのですから、身が軽く非常に敏捷な方であったというとこです。
常々、先生は、このサンセールーは私(重発)だけしか伝承していないとおっしゃっていました。このため、宮城先生は大変悔しがったと聞いております。
特徴としては、身体を全部使った大きな動き、二間から二間半の四方を使うという大きな技の連続です。
先生の三男である重光先生は幼少より重発先生の厳しい指導を受けていて、中学時代には陸上の選手でした。ことにジャンプ力にすぐれていて、このサンセールーを得意としていたようです。戦中の話ですが、当時話題となった映画に「姿三四郎」というのがあります。このサンシローとサンセールーをもじって三四郎というあだ名がついたというほどサンセールーを得意としていました。また、話は余談になりますが、ここで思い出したことがあります。
それは終戦後のことですが、当時、大分県の竹田に疎開しておられた先生は熊本で行われる沖縄県人会のある種のイベントに参加されたそうです。熊本で調査をすれば分かることですが、熊本公会堂か、あるいは演劇場だったのかもしれません。琉球の踊りとか、琉球民謡とか、空手の先生方も多く出演されたそうですが、重発先生は頼まれてサンセールーを演武されました。その時演武したサンセールーの大きな飛込みの動きで演武場の床板を踏み抜いたのです。
重光先生に肩を担がれて帰られたそうですが、このことが後遺症となって晩年先生を苦しめることになりました。
「神崎君、決して自らを過信してはいけない。あの時、医者に診てもらっておけばよかったよ」と、つくづく悔やまれていました。右足の不自由な症状は亀川に練習に行くようになってからじょじょに目につくようになりました。

 5.ベッチューリン ペッチューリン
このころになると、先生は傍で見て指導するということになりました。重光先生が指導者として先生の助手をすることになったのです。
このころ、先生は別府市に新たに庭付きの家を購入されていましたが、門下生は私一人になっていましたので、練習には広すぎるくらいの庭でした。
マキワラを立て、カキヤーを作り熱心に練習に励みました。当時は全て手作りの道具です。このカキヤーとマキワラの柱は、そのまま当時の面影を残して現存しています。
当時、既に大分県の剛柔流として仁武館という道場を開いていた毛利彊先生の記念大会に招待されて見学に行ったことがありました。その時、スーパーリンペーの演武がありました。私も、すでに名称は聞いたことがありましたので、興味深く演武を拝見させていただいたわけですが、それまで私は、このスーパーリンペーとペッチューリンは同一だろうと思っていたのです。それで、帰ってからの報告に我々のペッチューリンとはここが違う、このところが違っていたと言いました。先生は、一瞬むっとした表情で、「東恩納のタンメーはペッチューリンとして指導されたのだ。剛柔流のスーパーリンペーがどうであれ、それはスーパーリンペーであって、ペッチューリンはペッチューリンなのだ」と言われたことをはっきりと覚えています。
現在、毛利先生は全日本剛柔会会長に就任されています。

 6.ジオン
先生は、沖縄県立師範学校で学びましたが、当時の師範学校の軍事教官に屋部憲通という有名な空手の達人がおりました。許田先生が使われる東恩流のジオンの型はこの屋部先生から伝授されたものです。私は、これも東恩流の型として大切に継承したいと思っております。
この屋部先生が軍隊にいたころの話を許田先生からお聞きしたのを思い出しました。それは軍人仲間でのいざこざがあって、屋部先生は攻撃してくる相手を捌いて相手の胸を掌底でついたのです。これが相手の肋骨を折るという事故になり、先生も罰せられそうになったそうですが、突いたのではない、押したのだということが認められてウヤムヤになったということです。非常に拳の強い方だったそうです。
先生は東恩納寛量の型だけに拘らず、あらゆる空手の技と道を極めることに積極的に取り組んでおられました。那覇の若狭町に「空手研究倶楽部」が設立され、先生も宮城長順先生、摩文仁賢和先生、本部朝基先生、呉賢貴先生などと一緒に研究されています。お互いに教えあいながら、自分に足らないところを取り入れる。吸収しあうという方法です。いわゆる流派を超えた空手研究倶楽部なのです。ただ、那覇手、首里手などということはありましたが、お互いに研究をするということが目的だったようで、空手に流名のない時代でした。
それに比べて現在の方が、各会派、流派に垣根を作っているような感じがするのは私だけでしょうか。
この当時の話を思い出しました。こういう先生方の集まりでよく繰り出したのが辻?とよばれる遊び場所、飲み屋街のあるところだったそうです。ある一軒の飲み屋の二階で、ある技についてのことが議論となり、先生は、それでは「私がつかってみよう」とおっしゃって、立ち上がるや非常に大きな技の展開が行われました。
ところが、階下の部屋で飲んでいた人たちには何事も聞こえなかったということです。つねづね、猫のように柔らかで虎のように力強くということを心掛けていた先生には当然ことですが、この話は熊本に居住する山口重男という先生の甥にあたる人からもお聞きした話です。
ちょっと話は脇道にそれますが、この山口重男さんは、私が防衛庁に就職し、研修教育のときに知り合った方で、「許田は私の伯父だよ」と非常にお世話になった方です。
この辻というところの話は先生の話に度々登場しました。ある種の歓楽街のことでしょうか。この辻では、たびたび空手の腕試しのようなことが行われていたそうで、先生も襲われたことがあるそうです。ある夜のこと、一人の暴漢が先生に挑戦してきました。先生は二、三度相手の攻撃を避けると、初めて攻撃の形になり「やるのか」と詰問しました。それを見て、その暴漢は逃げ出したそうです。彼は、そのときの恐怖を何かの折に本に書いております。先生は、多分彼だろうとは思っていたんだが・・・と笑っておられました。

 7.ネーパイ
若狭町での空手研究倶楽部時代のことです。この空手研究倶楽部の仲間に那覇の東町で茶商を営んでいた呉賢貴がいます。彼は福建省の白鶴拳の武術家でした。中国拳法のネーパイという型を得意として、重発先生もこの方からネーパイを継承されています。もともと那覇の手は福建省から渡来したものですから源流は福建省にあります。那覇の手は、ルールーという福建省の中国拳法家が東恩納寛量に教授されたものだと伝えられていますから、このネーパイについても重発先生は那覇手の中の一つとして取り入れられたようです。
これは中国武術の書である武備志にも載っている興味の持てる技の展開があります。そうして、いまでは東恩流の最高の型として継承されています。
その後、日本武徳会(戦前このような団体があった)に剛柔流の宮城長順先生のお弟子さんが、(氏名忘却)資格を取りに行かれました。(範士、教士、練士)いずれかは分かりませんが、戦前には相当権威のある称号でした。その時、流名を問われて、長順先生に相談したのが流名を名乗ることになったのが始まりだと言われています。
流名を名乗ることにあたって長順先生は重発先生に相談されています。中国拳法の書に武備志というのがあり、その中に拳之大要八句という武術についての記述があります。「人心同天地。血脈似日月。法剛柔呑吐。身随時応変。手逢空則入。馬進退離逢。目要視四向。耳能聴八方」。
これは拳法についての心得が書いてある書ですが、長順先生は、この中の剛柔という言葉をとって剛柔流とつけたいがどうでしょうかと相談されたそうです。
先生は、「私は東恩納先生の空手の精神的を汲んで、その名の一部をいただいて東恩流とする」とおっしゃられたそうです。
このように、東恩納先生の指導と精神的な影響を多分に受け継いだ先生は、自分自身の研究も加えながら、ご自身でその技に人としての優しさ厳しさをもって指導をされたのです。そして、空手道の精神と技術を東恩納先生に学び、それを伝えるということで東恩流とあえて流名を名付けられたようです。
先生には、一つの苦い思い出があります。それは、まだ若いころの先生が右腕に負傷をされたときの話です。やはり辻での出来事でした。この辻という所の話は、先生のお話の中にたびたび登場しますが、歓楽街のことだったのでしょうか。相手は一人でしたが、刃物を持っていました。先生は来るかと身構えました。すると、いきなり突いて来たのです。本能的に払います。ところが、相手の持つ刃物が上を向いていたのです。これは先生が生涯の不覚として非常に気にしておられました。血を見て相手はびっくりして逃げ去りましたが、「神崎君。相手の刃物がどのような状態なのかを良く見るべきだったと悔やまれていました。
先生は酒豪と言われるほどの飲み手でした。若いころには一晩飲み明かして、学校に授業に行ったというほどですから驚いてしまいます。
それに比べて私などは足もとにも及ばない下戸でした。「空手をやれば飲めるようになるよ」と、よく冗談を言われながら酒の相手をしたものです。こういうときに、真実の先生の顔が見えてくるのです。
空手のことになると非常に厳しい目つきになるのですが、平素は好々爺といった感じで非常に優しい親しみのある人でした。
「東恩納先生が、牛を肩に担いで坂道を降った話をしただろう。実際は坂道を牛を引いて降りるとき足が滑って牛の顎が肩に乗った形で滑り降りたのだよ」とか、「臥薪嘗胆という言葉を知っているね。本来の意味は薪の上に寝て、あるいは胆を嘗めてその苦さに仇への復讐を忘れないということだが、私は、その臥薪。それを実行したよ。竹の上に寝るんだ。その前にしっかり型の練習、技の研究、繰り返し繰り返し。疲れるね。すると眠れるんだよ。竹の上だから痛くて目が覚める。また、練習をする。疲れる。眠れる。目が覚める。また、やる。毎日ではないんだが・・・。こういう鍛錬の方法もあったんだよ」
先生のにこやかの顔が目に浮かぶようです。 
さらに、「近頃はあまり使われていないが、チーシ(丸い平らな石に穴を開けて棒を立てた形)を使って目の訓練もした。塀の向こう側に一人いて塀越しにそれを投げるんだ。くるくる回ってくるチーシーを素早く掴み取る。向こうに投げ返す。また、来るというようなこと。いろいろ研究しながらやったもんだよ」
それから「カーミー(甕)もそうだ。カーミーの掴むところは非常に掴みにくくて、直ぐに手が滑ってしまう。それを少しずつ砂の量を増やしながら、サンチンの型で使ったものだ。指先の力が非常に要求されるわけだね」
サンチンでは、足の運ばれる場所に素焼きの皿を置くんだ。それを素早くサンチンを使いながら進むんだ。物理的に言って割れて当然なんだが、体は吸い上げているんだよ。大地の気を。つまり自分で自分の体を持ち上げる力。体重を上のほうに吸い上げる力。これが大切なんだ。決して踏ん張ってはいけない」等々。 
このようなことなどは雨が降って稽古が出来ないときにいろいろお聞きしたものでした。先生は、小学校の校長先生を最後に退職されましたが、戦争中でありましたので、軍需工場のある近江絹糸に派遣されている沖縄の学徒動員の学生の指導に本土と沖縄を度々往復されたようです。終戦後間近には大分県の竹田というところに疎開しておられました。戦後派、ここでも近所の若者に指導していたそうですから、竹田にも当時の先生のことを知っている方がいるのではないでしょうか。五十年以上も前の話になってしましました。この当時、先月亡くなられた福岡の上原優希徳(三郎)先生もサンチンの指導を受けに竹田に行かれております。
経歴が示すように、先生は教育者として非常に優れた方でしたので、先ほど、私が述べましたように、終戦後の混乱の中に先生にお会いすことが出来、その感化を受けながら、まともな人間としてこれまで生きてこられたのも先生のおかげであると思っています。
お話の中には、武術者としての心得というようなことまでありました。闇夜に襲われた場合とか、道は成るべく真ん中を歩くようにすること、(現在では、車社会ですから危なくてとても叶いませんが)曲がり角では特に気を配ること、相手とともに歩くときには必ず相手の右側に位置を取るようにするなど・・・、常々心掛けていると習い性となって、私など女性と歩くとき、いつの間にか相手を危険な側に置くようになってしまいましたが・・・
先生は、私の心の中に永遠に生き続けておりますが、許田先生が残された東恩流の型を継承し、伝承していくことが私の許田先生に対する恩返しだと思っております。

まだまだ、先生に関しては書き進むほどに思い出すことが山ほどありますが、話が前後して取りとめもなくなりますので、この辺で筆を置きたいと思います。

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